超訳 報徳記 致知出版社
原著富田髙慶 1856年11月 現訳木村壮次
- 二宮金次郎は1787年7月23日生まれ、長男、3人兄弟
- 父が14歳の時に46歳で他界
- 生活費を稼ぐ為、山に薪を取りに行く時に「大学」という本を読誦しながら薪を背負って運んだと報徳記にある(これは富田髙慶の脚色だろう)
- 母が16歳の時に他界、父方の叔父の万兵衛に引き取られて働く
- よく働き余資は名主に寄付し極貧の人に分配していたという
- 17歳の時に不要とされていた場所を開墾、棄てられていた稲の苗を植え1俵収穫
- これを毎年拡大し、数年で多く収穫、家を再興→積小為大の考え方スタート
31歳の時に小田原藩家老服部十兵衛(1200石、借入1000両)の再建を任される
コンサルティングを実施するにあたっての内容
- 条件・期間5年、但し全て任せる事
- 支出の下限=分度を決める為、収入・支出見積もり実施(キャッシュフロー表作成)
- 食事は飯と汁だけ、衣服は木綿のみ、不必要な事はしないと条件(生活指導)
- 貸主呼んで返済計画説明(返済猶予)
- 奉公人の協力要請(人件費削減)
報徳記では5年で完済、300両残り、家計に100両余剰金、奥方へ100両、金次郎報酬100両、金次郎は報酬を奉公人に分配したと美談が書かれている
だが、実際はお勤め費用や贅沢治らず30年位返済にかかっているのが事実
服部の浪費癖や江戸詰の費用が膨らむなどが主要因
※服部家を今の家計に見てみると
- 収入1200石ー1石は150キロ、今は米の買取価格は玄米60キロで1,1万から1,5万円
- なので1石は27500〜37500円程度
- 1200石は年収3300万円〜4500万円(家老=取締役の年収)に相当
- 江戸後期1両は今に換算するとおおよそ40000円程度の価値
- よって4000万円程度の借入
- 当時は利息は年利20%が普通だった様で利息を毎年800万円支払い
生活費の足しに借りているからカードローン4000万みたいな状態
ここに生活費、お勤め代(江戸詰だと宿泊費、贈答品、交通費等全ての経費込み)数人の奉公人の給与支払い(月給25万円でも300万円)となると結構キツそう
※当時の物価は余り今と変わらない感覚
man@bow 野村HD、日経新聞運営サイトより調べ
- 家賃4,5畳(6,8平米)で当時家賃2万円程度、1平米=3000円程度になる
- となると30平米ワンルームで家賃9万円、80平米で24万円が江戸の人々の家賃
- 蕎麦1枚500円程度、お酒お銚子一本400円程度、鰻丼一杯3000円程度、床屋1000円程度
とあるので生活費は余り今と感覚は変わらないかも
- 大きいのが薪の費用、今で言うと電気、ガスに相当、一般庶民で月10万円以上かかっていたそう、服部家位なら相当かかっていたと思われる
二宮金次郎の若い時の実業家の側面
- 住込で働く(コンサルとして給与を得る)
- 小田原城下へ行き野菜や薪を販売、同時に村民の販売代行(手数料収入)
- 服部家では鍋釜の薪の効率的な炊き方を教えて(省エネ指導)余った薪を買取、販売
- 給与を貯まった奉公人からは預かり、他へ貸し出す(資産運用指導)実施※当時は貸金業は年利20%が通常の金利
- 農家には当時開拓の新田は7年、年貢非課税制度を活用して開拓させ(税務アドバイス)
- 非課税期間終わると小作に出させて小作料を取る様指導(不動産賃貸)
- 賃貸の資金貯まると田畑を買って増やす(複利効果)指導
二宮自身も20歳の時は9アール(900平米)が31歳には3、8ヘクタール(3、8万平米)に拡大
※貸金業は農民からは利息は取らず、大名などからは取る方式、農民の返済肩代わりで本業に専念させる、お金は必ず返済させる、資金援助はしない(借換指導)
小田原藩分家旗本宇津家の再建方法
32歳の時
藩主大久保忠真は小田原藩を任せたかったが農民上がりの指導は受けないと家臣が反対、よって分家の旗本宇津家(下野の国)4000石再建に任命
表高と違い実高は800石、治安悪く、移住者も住みにくく逃げる状況
条件
- 本家からの支援はゼロー支援があると怠けるから
- 分限を定めること(支出の限界値)
- 期間は10年と約束
手順
- 移住する
- 地元の接待は受けない(癒着しない)
- 一方で妨害する有力者は接待漬けにする(根回し)
- 村民と対話(人となりをみる)
- 善人を表彰、悪人を諭す(定期面談)
- 農民の租税免除、負債肩代わり、農具、衣類提供(福利厚生、モチベーション管理)
- 本家からの役人が時に讒言をすることがあったが大久保忠真が常に二宮を支援したため事業を継続できた(トップのバックアップ)
- 村には常に飢饉に備えて稗を育てさせ備蓄させる(リスク分散、余剰金)
3年分の蓄えが理想と教える
※根底には一円という考え方がある(相互扶助)
陰陽、強弱、善悪、男女、夫婦生死等世は全て対立するもので構成されている、半円と半円を合わせて一円。つまり、お互い協力し合ってこそ大事業ができる1946年に1円札に採用されている
※個別指導エピソード
岸右衛門という農民が全く言うことを聞かなく二宮批判を繰り返していた、当然頑張る村民の人望が無かった
ただ時期が経ち改心して改めて指導を乞うと二宮尊徳の指導内容は
- 家財、田畑全て売却(家族の反対は気にするな)
- 資金は新田開墾(退路を絶ってやれ、やる気を見せろ)
- 姿を村民に見せて信用を取り戻せ(信用は簡単に取り戻せない)
結果、開墾地は与え、以降協力者に変わった
宇津家改革は期間10年のうち、最初7年は妨害が多かったが8年目以降成果が出る
※心田開拓の重要性を説く
事業を為すには人々の心の復興がまず第一と考え特に人を大事にした
※職分(専門性)についてのコメント
1836年、大久保家支藩烏山藩(下野)の僧侶円応和尚が二宮尊徳に烏山藩の指導の依頼をしにやってきた際に追い返した話
藩主には藩主の職分(治世)、臣下には臣下の職分(家を支える為に働く)、僧侶には僧侶の職分(祈る事)がある、僧侶が自分の仕事を放って政治の事を直接依頼するのは筋違い、自家の藩主に願い出るのが先(各自の仕事を全うせよ、各自の専門分野を追求せよ、国を立て直したいなら国主に進言せよ)
烏山藩も指導を小田原藩経由で二宮尊徳に依頼して受ける
手順
過去10年分の収支計算書を分析させ、分限を定める所から始める(バランスシート、キャッシュフロー分析)
ただ、途中で協力者円応和尚死去、支援者だった烏山藩家老菅谷が出世後に離反
その後菅谷が失脚、尊徳に改めて詫びを入れ、藩主に取り計らい復職させたが死去
二宮仕法中断、失敗(協力者不在になった事が原因)
その他今に似ている話
1836年大飢饉が全国で発生、小田原藩も飢饉に
二宮尊徳は藩主大久保忠真の命令で江戸から小田原へ、飢饉の救済策責任者に
小田原で米倉を開く様に重臣に伝えるが、殿からの直接命令ではない、江戸にお伺いを立てて命令が本物であると確認できたら実行すると拒否(セクショナリズム)
江戸に伺いを立てるのに数日、餓死者は毎日増える、食物に不自由しない机上の議論では民の苦しみが分かるはずがないと説得して開けさせる
手順
- 各村を無難、中難、極難と3段階に分けて米を貸与
- コメが届くまで時間がかかるので自己資金を時間がかかりそうな村に持参
義援金は給付5年で民から返納されたとあります
本家小田原藩の再建依頼
小田原藩主大久保忠真死去目前に家老数名から二宮尊徳に藩財政再建を依頼
ただ、結果は失敗
理由
- 藩の支出の分限を小田原藩は示さなかった。藩士の反発を招くため(既得権益)
- また、他藩での尊徳の成功も藩士が犠牲になっただけだと不満が小田原に届いていた
- 二宮尊徳に民衆の支持が集まることを藩が警戒
- 報徳方という役所は設けたが機能せず
改革派に対する妬みもあったし二宮尊徳が元農民なのも影響したと思われる
最終二宮尊徳は小田原入城禁止措置を取られてしまう
常州(茨城県)下館藩再建依頼 藩主石川近江守
- 石高は2万石だが、実高は1,3万石程度に低下
- 借入3万両、年2000両利払い
- 年貢収入の半分を利払いに費やす状態
手法
- 分度と収入見積もり計算(過去10年分データ)
- 武士の給与カット(特に家老は全額返上)
上が高給を受け取るまま下を指導しても不満が溜まるだけと指導
負債償却方法
- 目先数ヶ月分の費用を二宮尊徳が提供(増資)
- 伊勢亀山の本家に計画を説明し援助を求める(増資)→4か月分の経費支援
- 貸主の商人と交渉、返済計画説明、支援求める
(具体的な記述は無いが1部債務免除や猶予を申し出ていると思われる)
相馬中村藩(福島県)再建計画 藩主相馬益胤→充胤
- 石高は6万石、ただ実高は10万石近くあり元は豊かで贅沢な暮らしぶり
- 1784、1787年の天明の大飢饉で財政難、借入30万両超過、利払いすら困窮
- 以降20年間給与カットなどを行うが成果が上がらないまま時が過ぎる
著者の富田髙慶は相馬藩士だが数ヶ月かけて二宮尊徳の弟子入りを果たしていた、相馬中村藩からの依頼が成立した際には二宮からの派遣の形を取って二宮は中村藩には入らず後方から指示を出し富田が指導する形をとった
- 藩主と家老が徹底してサポート
- 当初家老が藩主の命を受けて二宮尊徳に依頼
- しかし国の群臣が他国の下級武士の指導を受けることに反対
- 会った事もない人から給与カットされる事に対する不安と不満
- 最終は藩主が2人の家老に委任して命令、指導を受ける様押し切る(社長とバックアップを受けた役員の強力な推進)
- それでも不満が多い為家老が二宮尊徳との面談時末席に座らせ話をさせ信用させていく
指導内容
- 開墾による収入拡大(積小為大)
- 分度設定
180年分の収入資料があったため全て計算して6,8万石と決める
- 復興計画書を10年ごとの想定をして3巻作成(コンサル提案書)
- スタートは当初土地柄の厳しい場所を藩は選定したが二宮尊徳に却下
- 最初は成功確率の高い村からやるべき(ランチェスター戦略)
- それでも藩が別の村を指定したため3年コンサル開始せず(簡単には受けない)
- 最終1845年中村藩が折れて二宮尊徳指定の村から開始
- 当初2村成功、周辺に広げる
- 住民から相次いで指導されたいと要望集まるが
一気に数十ヶ所に広げると全体に指導が行き渡らず失敗すると断る
最終的に成果が拡大、10年後は分度を7万石に引き上げる
30年間継続し、戊辰戦争や廃藩置県で停止
藩主と家老2人が徹底してサポートしたため非常に効果が上がった例
その他用水路を整備したり土木事業の指導も行う
※主従関係についてコメント
君主が食を与えると君臣、取ると敵になる
百姓も与えると平和の民、取ると乱民になる(企業統治)
※人について
貧乏だと心を痛めつける、良心が保てない
分限を忘れて散財するから困る事になる
※改革の4つの柱
至誠 常に真心を尽くす事
勤労 物事を良く観察、認識せよ、社会の役に立つことを考えながら働け
分度 自身の立場や状況に合った生活を行うこと
推譲 世のために尽くす事、他人や公に譲る事
人道は譲道と説く
今年の収入を来年へ、子孫へ、他人へ譲る(相続、奉仕)
それは戻って成果が上がり結果豊かになる
常に恩に報いる心がけが重要
※一円 人々には自立を推奨し
相互扶助を求める
事業開始は全て受けてからすぐスタートしたわけではない
適切な時期が来なければ成果は上がらないと見て各依頼主の状況をよく観察してから実施していた
感想
富田髙慶は相馬中村藩藩士でもあり、二宮尊徳の弟子でもあるので恐らくかなり師匠や相馬中村藩の事をよく書いている側面はあるかもしれません、ただ、福島県の相馬、南相馬で今も人々に語り継がれている事を考えるとかなり二宮仕法が大規模に成功した地域なのは間違いないと思います
二宮尊徳は実際何をした人?となると今や教科書にあまり出ないので良く知りませんでした。薪を背負った銅像や石像が小学校にある人位のイメージでした。
どうも戦後は戦前に国民に勤勉を促すために銅像を建てたことが戦後の教師の反発を招き
教えなくなり忘れ去られてしまったので今の人に浸透していない様です
でも、改めて読み返すとこれは今で言うところの個人にはファイナンシャルプランナーやプライベートバンカーの考え方ですし、企業にとっては経営再建のコンサルタントの考え方そのものと言った内容です
また、コンサルにあたっては働く人々の心を立て直す事に腐心していたことがわかります
数字の押し付けではなく、心の改革の重要性に気付いていたからだと思います
働く上で企業のトップ、役職員のそれぞれの心構えについても考えさせられます
改革自体は成功も失敗もありました
相馬中村藩の成功が大きく、関東一円から東北に教えが広がっていったようですし、子孫へ引き継がれ報徳学園などの基礎にもなっていくのですが、最初から良い教えが大成功というわけでは無かった様です
自分さえ良ければ良いと思い人はいまさら倹約と言われても困りますし、元農民となると身分社会の壁も今以上に大きいので既得権益対改革派となって対立を招いたと思われます
これは今も同じような構図です
一時は所属していた小田原藩からも半ば追放の様な形になっていました
あまり触れませんでしたが、最後は日光東照宮の所有地の真岡6万石の改革を幕府から指示されますが、身分は代官の家来で、ある程度の成果は上がった様ですがやはり代官が目立った事を望まず、非協力的だった事が大きな妨げになっています
結局成功した地域は旗本領や各藩であったりと、その地域のトップが地域の全てを決められる地域であって、なおかつ非常に困っていて、藩主が強く後押ししているケースが挙げられます
幕府領の場合は代官と言っても所詮は中間管理職なので担当地域に過ぎません
ここ数年を無難に終われれば良いだけです
今で言うとサラリーマン社長なのかオーナー社長なのかの違いかもしれません
今後も二宮尊徳について考えてみたいと思います